一番気に入ったことば「面接法の基礎を学ぶことは、「人間」を学ぶことである。」
他にも気に入ったことばが盛りだくさん(以下引用文)
面接者は専門家であり、自分一人では専門家になれない。(p.5)
自分には人を助ける力があると過信して、自信たっぷり、面接をする人がいる。面接に来た人に説教したり、自分の考え方や思想や宗教を押しつけたりする。本人は満足であっても、相談に来たこそ迷惑を被っているのである。(p.6)
フロイトやロジャースを読めば分かるように、彼らは、心の相談に来る人と同じように、あるいは、それ以上に、心の世界を、深く探索していく姿勢を持っていた。(p.8)
優れた面接者とは何であろうか、多くの専門知識を持ったうえで、心の相談に来た人を前にして、「私は、この人に何が出来るのだろう」と、自己を深く見つめ直す姿勢を持っている人ではないだろうか。(p.8)
面接を学ぶには、二つの要素が必要になる。第一には、来談者自身から直接、学ぶ姿勢、第二に、良い先生達から直接学び、かつ、有名な本を読むこと。このどちらの要素が欠けても、専門家としては欠点がある。(p.9)
心の相談には、面接者が忘れてはならない重要な、もう一つの役割がある。いわゆる社会資源の有効活用を助けることである。(p.16)
面接の鍵をにぎるのは「不在の他者」である。(p.20)
来談理由を理解するには、それまでの来談者の生活史life historyをしらなければならない。それには家族歴family historyを理解しなくてはならない。(p.27)
来談時不安(p.30)
面接では、面接者が感じたこと自体が、来談者の心を投影する所見である。(p.35)
来談者は悲観的訴えのみを語る。その言葉は面接者の心の深くにある自尊心をくすぐる。(p.36)
観察所見=客観データ+観察者の主観(p.39)
矛盾があるところに、重要な課題が隠れている。(p.46)
面接=聞くこと+見ること+対等な出会い+専門的関係+ストーリーを読むこと(p.48)
重要なことは、「ただ聞くこと」が良かったと言っているのではない点にある。(中略)「自分の気持ちがハッキリするように聞いてくれる」と言っているのである。これが「よく聞く」ということの内容である。(p.51)
初心者は、面接は「よく聞くこと」と教わるが、「よく聞くこと」と「ただ聞くだけ」との区別を教わらない場合が多い。(p.52)
面接では、一つの問いの中に、専門理論、経験、技法の総てが凝縮されている(p.57)
面接者が或るストーリーに思い当たったとしても、それは常に仮説的である。(p.59)
見ること=客観的観察+見守る眼差し(p.61)
来談者とは、面接者を観察する「不気味な他者」でもあるのだ。(p.63)
絶望が苦しいのは、絶望の中に、一分の希望が宿されているからである。(p.64)
人と人との出会いにおいては、総てが新しく、個々の出会いが一回限りであり、新しく来たケースに関しては、誰もが、初心者なのである。(p.67)
面接とは、面接者と来談者の二者関係から、「不在の他者」を扱う技術である。(p.69)
専門知識は、面接者と来談者が二人で歩むであろう、長い旅立ちのガイドブックである。(p.72)
無制限性に支配される誤り(p.77)
障害受容は、自己受容が如何に困難かを知るための言葉として意味があったのだ。(p.85)
自己洞察は問題解決に至るとは限らない。「自己洞察が深まれば死ぬことになるかも知れないのだよ」とは、(中略)石川清先生が教えてくれた言葉であった。(p.86)
究極の問いを「受け止めること」、実は、面接の難しさも楽しさも、ここにある。(p.87)
自分だけ高いところにいて同情するのは、共感ではなく憐みである。(p.91)
土井健郎先生は、「外科医が血を見て卒倒していたら仕事にならないだろう。心の専門家が人の苦しみを直視できないで、どうするの」と笑っていた。(p.93,94)
理論そのものを観察対象とする歓声が、必要である。(p.97)
面接とは、面接者と来談者との二者関係に、「不在の他者」が加わった三者関係である。(p.100)
「気に入ったことば」にあげた文言は非常に含蓄のあることばで、敷衍すると「面接の中で人間を知る(考える)」ことにも繋がるし、人個人ではなく、人間の「私とあなたの間にある世界に思いを馳せる」ことの基盤ともなり得ると思うのです。
私の仕事柄、きっちりとした枠組みのある心理面接を行うことはありません。保護者面接に関しては、そのエッセンスを用いることはあります。それでもやはり、臨床心理士・公認心理士として心理面接の基礎に立ち返り、面接者としの自己を振り返る作業は欠かせないと思っています。
心理面接を行う方のみならず、対人援助の中で相談を受ける方皆に読んでもらいたい一冊です。